徳島の現在(4):限界集落と廃校

徳島調査の最終日、神山町北部の「持部」という集落を目指しました。
山間の小さな集落でそこには数十年前に廃校となった小学校跡があるとのこと。
廃墟・廃村巡りをライフワークにしようとしている(?)僕としては行かないわけには行けません。


持部の位置


ガードレールがない道


田の窪地区
(帰り道に撮った写真)



田の窪の民家



すだちの仕分作業中



木が横たわって先に行けない道



最後の上り坂



廃校入口付近


あれっ。地図で見る限り、そんなに人里離れているわけではなさそう。
ということで、行ってみました。
神山の北部の広野という集落に県道から外れる林道があり、その先の急な坂道を上っていきます。
・・・軽自動車で行って正解でした。
予想以上に道が狭いです。
待避所がないところだと対向車とすれ違うのは困難なほど。
10分くらい進むと道路状況はさらに悪化。
あれっこれやばいんじゃないか的な状況になりました。
さすがにレンタカーに傷はつけたくない。
ただ引き返そうにも方向転換できる場所がない。
とりあえずこの先に集落があるのは確かなので、情報を信じてさらに進みました。

林道に入って20分くらいでしょうか。
ようやく道が開けてきました。
そして10軒くらいの集落が目の前に現れました。
田の窪という集落だそうです。
思っていたより立派な人家が並んでいました。
林道の先にこんな集落があるとは。
しかしもはやナビにもgoogle mapにも載っていない道。
集落内の分岐で立ち往生になりました。
と、そのとき民家から地元のおじいちゃんが現れました。
とりあえず休んでいけとのことで、敷地内に招き入れられました。



ここで地元の方からお話を聞くことができました。
お話によると、ここにはもう若い人もおらず、家屋の多くは空き屋だとのこと。
みんな平野部の町に出てってしまったらしいです。
お話好きのおじいちゃんのようで、過疎に関するおじいちゃんの持論を話してもらいました。
おじいちゃんによれば過疎の最大の原因は「仕事がない」ことではなく「学校がない」ことらしい。
仕事はこだわらなければちゃんとあるらしいです。
たしかに儲かる仕事はないが、山奥では儲けても意味はない、と。
生きていく分と老後の蓄えなら、農業で十分らしいです。
問題は通える学校がないこと。遠くの学校に通わなければならないことだと言います。
そして学力格差。山間部の学校では十分な教育をおこなえず、親たちはたとえ自分自身が満足していたとしても、子供のために町に引っ越すらしいです。
なるほど。過疎の村の地元の方から生の声が聞けて大変勉強になりました。

おじいちゃんの家はすだち農家。
おばあちゃんと2人で切り盛りしているとのことです。
ちなみに、この一帯は日本最大のすだち生産地。
お土産にすだちを100個くらいと柿とみかんを頂きました。
両手でやっと持てる量・・・
いやいや、見ず知らずの来訪者にこんなに温かくおもてなし頂けて感激です。
突然申し訳ありませんでした。


さて、目的の持部集落までは、さらにここから車で奥に行って20分くらいとのこと。
おじいちゃんに道を教えてもらい出発しました。
道はまた狭くなり、ぼこぼこに荒れ果てていきます。
途中いくつか分岐もありましたが、おじいちゃんのおかげで迷わず進めました。
分岐先の一部で木が倒れて進めなくなっていました。
この先は人の住んでいない廃村だとのことです。
興味はあったけど、ここから歩くとかなり時間がかかりそうなのでやめました。
峠を越えたのか、次第に下り坂に。

うねうねとした坂を下りきると、とうとう「持部集落」と書かれた古びた看板が。
おじいちゃんの言うとおりそこにあった分岐を右に曲がり、坂を上っていきます。
道は行き止まりになっていて、そこに3軒の民家がありました。
そのうち人が住んでいるのは2軒。
離れたところに民家はもう3軒あるらしく、合計5軒の集落です。
(廃屋を含めるともう少しありそうです。)
ここでも地元のおうちにお邪魔になりました。
こんなところにやってくる人などまずいないらしく、東京から来たと言うと非常に驚いていました。

車を降りて、小学校跡までは徒歩らしく、地元の女性に案内してもらいました。
ちゃんと許可を頂き廃校探索ができよかったです。




教室の外観


教室跡

学校の名称は広野小学校持部分校。
昭和40年代後半に廃校になったそうです。
創立120周年があったらしいので、明治時代からの古い学校ですね。
昔は近くに鉱山(銅山)があって、明治時代に閉鎖したらしいけど、その頃は集落には100人以上の人がいて学校にも子供がいっぱいいたそうです。



床には大きな穴が



職員室跡



田の窪で頂いたすだちと柿とみかん


教員は里の学校から上ってきて、ここに当直で寝泊まりしていたらしいです。
なので職員室には生活感のあるものも。
昭和49年の新聞もありました。
ほかにも当時の教科書や雑誌などが散乱していました。
時が昭和49年で止まったままの空間。
廃校と言えば、サバゲや肝試しでやってきて好き勝手荒らされるイメージがありますが、さすがにここまで来る人も少ないよう。
(ここまで来るくるのはマジメな廃校マニアなんでしょう。)
ちなみに地元の方の話だと2年に一度くらい廃校を見に人がやってくるとのことです。

さて、目的も無事達成しました。
鉱山跡などまだまだこのあたりには見所があるのですが、生憎地元の方でも容易には近づけないとのこと。
というか炭鉱は明治時代という相当昔の話なので、60代くらいの人では炭鉱の入口がどこにあるのかさえ正確にわからないらしいです。
帰り道は運転も慣れて、来たときよりも早く里に下りることができました。

徳島レポートはこれにて終了です。
たった数日間の滞在で何かわかった気になるのもおこがましいですが、色々と徳島の現実をこの目で見ることができてよかったです。

旅中で出会ったみなさん、ありがとうございました!