ヴィクセルの「自然利子率」から振り返るハイエクVSケインズ




最近、『ケインズか、ハイエクか』(ワプショット著、2012)を読みました。

両者の生き様と論争をドラマティックに描く本書は、やや演出が過ぎるのではないかと思ってしまうほど。勉強というより長編小説の気分で読みました。

書評に代えて、この本に続いて読んだクヌート・ヴィクセル『利子と物価』の「自然利子率」に対する考察から、論争を振り返ってみたいと思います。

というのも、『ケインズか、ハイエクか』を読んで、直感的に「自然利子率」に対する考え方の相違が両者の分水嶺となっているような気がしたからです。



ヴィクセルの『利子と物価』(1898)によれば、物価変動は「自然利子率」と「市場利子率」の乖離によって引き起こされる。

「自然利子率」とは、人々が交換過程で実際に見出していると想定される利子率である。他方、「市場利子率」とは、銀行が定める利子率である。

自然利子率は、誰も明確に示すことはできないが、しかし「本来的」な利子率であり、人々の感覚としてもっとも「しっくりくる」であろう利子率である。

そして、銀行は、利子率を定める際に、借り手には積極的に借りてもらいたいが同時に銀行が損をしないようにしたい。だから市場利子率がもっとも自然利子率に近づくように利率を設定する。もちろんその間に自然利子率の方も変動する。だから市場利子率は常に自然利子率に遅れてやってくる。

ここにタイムラグがあるわけだ。

ハイエクはこのタイムラグの中に景気循環の要因を見出した。ちなみにケインズが、ハイエクの景気循環論を理解できなかったのはきっとこの自然利子率という概念の意義がわからなかったからだと思う。


かという僕自身もよくわかっているわけではないのかもしれない。世界中のどこを探しても、誰に聞いてもその瞬間の自然利子率はわからない。でも「ある」とされる利子率。いや、本当に「ある」のだろうか。それとも「ある」とか「ない」とかいうこと自体がおかしな問いかけなのか。


ところで、ヴィクセルの自然利子率の概念は明らかにスミスの「自然価格」の概念を負っている。新古典派経済学のなかでスミスの「自然」概念は「平均」概念に置き換えられていった。「自然失業率」を論じるフリードマンさえも「自然」をそのように理解している節がある。しかし、ヴィクセルとハイエクにとって、「自然」は「平均」ではありえない。ヴィクセルにとって自然利子率は銀行側の借り手に対する主観的「予想」がその根拠である。ハイエクは新古典派に回収しきれないヴィクセルのこの「自然」を拾い出す(とはいえ、もともとオーストリア学派の発想なのだが)。このヴィクセルの言う主観的予想とは、暗黙知に支えられた人々の実践感覚に対する予想である、と。だから、いかなる統計技術を駆使してもその瞬間の自然利子率は把握しえない。「自然」は、中央当局には扱えないわけである。


この「自然」は、いわゆる神秘的な「自然のメカニズム」や「神の手」ではなく「人々の行動パターン」のことである。外生的自然ではなく内生的自然であると言えばいいのだろうか。歴史的蓄積を経て人々の間で慣習化された行動様式や認知様式のことを指し示している。ウェーバーの言葉で言えば「諒解」にあたると、僕は思っている。


市場利子率が自然利子率に近づく過程は、端的に言ってしまえば、制度がトライアンドエラーを繰り返して人々の「諒解」にフィットしようとする適応過程だ、とも言える。「自然」を無視して中央銀行の利子率を都合よく引き下げたりすると、この適応過程が阻害される。その結果のひとつがインフレだとハイエクは指摘している(ちなみに「金利引き下げ→インフレ→物価上昇→でも賃金上昇は遅れてやってくる(タイムラグのせい)→タイムラグの間に買い控え・節約(強制貯蓄)→生産縮小→契機回復しない」という理路)。そして、「自然」を作り変えようとか、人為的に操作しようとか、そういった試みは徒労どころか有害であるとさえハイエクは言うわけである。

ケインズはこうしたハイエクのような考え方を「悲観主義」だと言う。ケインズからすれば、それは「自然のなすがままにまかせる」ということにほかならない。それは貧しい人々が貧しいままでいることを、弱肉強食のなかで果てていく人々を、指をくわえて見ているに等しい。政府は動かなければならない。無慈悲な「自然」に立ち向かわねばならない、と。だから彼は積極的に「自然」をコントロールする必要性を強調する。金利を意図的に引き下げて、需要を喚起せよ、というわけだ。ちなみにこの理路は「金利引き下げ→企業がお金を借りやすい→企業が工場を作る→雇用が生まれる→労働者の購買能力が上がる→商品が売れる→景気が良くなる」というわかりやすい図式だ。

ところで、台風や地震といったいわゆる自然災害を「外生的自然災害」と呼ぶならば、恐慌や不景気は「内生的自然災害」と呼ぶことができる。ハイエクからすれば、それはどちらも人間の人知を超えている。人間にそれらをコントロールすることはできない。もし、それをしようとすると「自然」の本来的なあり方を変えてしまう。大気の流れを変えようと巨大な扇風機を太平洋上に設置したり、大地が揺れないように世界中の大地に杭を打ったりすれば、植生の変化や水質変化、気候変動といった意図せざる結果が生じる可能性がある。だから、人間の都合で自然を改変させてしまってはいけないのだ。そして、それは「内生的自然」についても同様である。金利を引き下げればインフレという意図せざる結果が生じる可能性がある。ハイエクが主張していたのは、「自然」に対する謙虚な姿勢にほかならなかった。

ケインズにはハイエクのこうした主張が理解できなかった、と言ってしまうとハイエクに肩入れしすぎかもしれないが、いずれにせよ、2人の分水嶺を分かつのが「自然」という考え方にあったという見方ができるような気がする。話を拡張すれば、「小さな政府」と「大きな政府」の対立軸をバックグラウンドで構成しているのが「自然」という考え方についての相違であるとも言える。

自由市場経済を批判する論者は、もっとこのあたりに批判を加えてもよいのではないだろうか。古典的自由主義以来の「『自然』イデオロギー」そのものに対する議論を展開するような批判があってもいいだろう。もちろん、既にやりつくされた議論だろうけれど(ハーバマスとかもしていたような気もするが)、今日の自由市場経済を考えるという文脈で再考してもよいのかなと思う。特に社会学者がよくやるように市場経済をその帰結から、つまり「格差が拡大してしまう!それは道徳的に良くない!」という点からの批判は感覚的に受け入れやすいが、最近はそればかりのような気もする(それはそれで重要なのだが・・・「科学」というより「政治」になってしまう)。「自然」というその原理(信仰)に対する内在的批判をあらためて考えてもよいだろう。

ちなみに、信者とまでは言わないけれど、理論的にはハイエクの方に関心を抱く僕としては、むしろ「自然」という考え方をもっと突き詰めたい。特に、貨幣理論へと展開していくためにはきわめて重要な点なのではないかと。ただ、それを「自然」という概念のままで扱うのはあまりにも危険だ。ハイエクもそれをわかっていたからこそ「カタラクシー」や「ノモス」といった新たな概念を作り出さねばならなかったのだろう。